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2008年10月 8日 (水)

【10/5 緒方拳の死を悼む】 

 先週はポール・ニューマン(【9/26ポール・ニューマンの死を悼む】)、そして今週は緒方拳
 何か時代が動きつつある予感がする。

 さて、役者緒方拳との出会いは、いつの頃だったろうか。
 やはり、NHK大河ドラマの「太閤記」は外せないだろうが、ただ自分から意識的に見たという印象はない。

  となると、背筋をゾクゾクと感じさせた復讐するは我にあり 」(1979年今村プロ・松竹、監督今村昌平、原作佐木隆三、主演)か、「薄化粧 」(1985年松竹、監督五社英雄、原作西村望、主演)に魅入られたのだろうか。
 
 それとも、一個の人間の生き様を強烈に感じさせた「野獣刑事 」(1982年東映京都、監督工藤栄一、主演、 ベルリン映画祭コンペティション)、「陽暉楼 」(1983年東映京都、監督五社英雄、原作宮尾登美子、主演)

 そう言えば、「楢山節考 」(1983年今村プロ・東映、監督今村昌平、原作深沢七郎、主演、日本アカデミー賞最優秀主演男優賞ほか、カンヌ映画祭パルムドール)を見た夜は、まるで子供が始めてお化け屋敷に行ったように、一晩寝床の布団に包まっていたように思う。
 
 サラリーマン時代には、「社葬 」(1989年東映京都、監督舛田利雄、主演)、「国会へ行こう! 」(1993年バンダイビジュアル、監督一倉治雄)を見て自分も一発奮起・・・と思った。
 
 初めてヨーロッバへ旅行へ行った時、「おろしや国酔夢譚 」(1992年大映・東宝、原作井上靖、大黒屋光太夫役、主演、サンパウロ映画祭観客賞)が、機内映画で流れていて、何だか自分の前途を見送ってくれているようだった。
 
 今日にあっても、「北斎漫画」(1981年松竹、監督新藤兼人、主演)と、「火宅の人 」(1986年東映京都、監督深作欣二、原作檀一雄、主演、日本アカデミー賞最優秀主演男優賞)の自由奔放な生き方は、あこがれの人生のお手本である。

<緒方拳>
 緒形 拳(おがた けん、1937年7月20日 - 2008年10月5日)は日本の俳優である。
 (ただし、本人の中では芸名の読み方は「おがた こぶし」。下記「エピソード・芸名」参照。)
 東京府東京市牛込区(現・東京都新宿区市谷)出身。
 本名は緒形 明伸(おがた あきのぶ)。長男は緒形幹太、次男は緒形直人で共に俳優
 1957年、東京都立竹早高等学校卒業後、憧れていた新国劇の辰巳柳太郎の弟子になるべく1958年に新国劇に入団した。
     入団後は辰巳の付き人になる。
     下積みの彼の才能を評価し抜擢してくれたのは辰巳ではなく新国劇のもうひとりの雄島田正吾であった。
 1960年、『遠い一つの道』でボクサー役に抜擢され映画化された作品では島田と競演し映画デビューを果たす。
 1965年、NHK大河ドラマ『太閤記』の主役に抜擢され、お茶の間の人気を独占する。この間も新国劇を休むことは許されなかった。
 1966年、NHK大河ドラマ『源義経 』の弁慶役を演じる。新国劇所属の女優・高倉典江と結婚。
     1968年、新国劇を退団しフリーになる。
     テレビに映画にと精力的に出演し、テレビでは『必殺仕掛人』シリーズの藤枝梅安役で好評を博する。
 1978年、野村芳太郎監督作品『鬼畜 』に出演。その演技は秀逸でその年の男優賞を総なめにする。
     その後も1979年に『復讐するは我にあり』(今村昌平監督)、1983年に『楢山節考』(今村昌平監督)に出演し高い評価を得る。
     また1999年、池端俊策監督の『あつもの』で「フランス・ベノデ映画祭グランプリ」を受ける。
 2000年、紫綬褒章受章。
 2008年10月5日午後11時53分、獨協医大病院にて、肝癌による肝臓からの出血により死去した。
     最期は家族と長年の友人であった津川雅彦が看取ったとのこと。71歳没 。戒名は天照院普遍日拳居士。
     出演最後の作品は『風のガーデン』となった。

 (エピソード・芸名)
  芸名の「緒形拳」は劇作家・北条秀司の夫人によってつけられたもので、元々は「おがた こぶし」という読みであった。
  芸名の候補として「緒形 寅蔵(おがた とらぞう)」、「緒形 掌(おがた てのひら)」、「緒形 握り拳(おがた にぎりこぶし)」などの案が上がったという。
 「お前の特徴は何だ」と聞かれて、とっさに「うーん、手かなあ」と答えたことから手に関連するあらゆる単語が(現実的でないものも含めて)連想的に挙がったという。
  最終的に「緒形 拳(おがた こぶし)」と決めたが周囲の誰からも「こぶし」と読まれず、「ケンさん、ケンさん」と呼ばれ続けた為に意に反してそちらが定着してしまったという逸話がテレビ番組『トリビアの泉』で明かされた(2006年3月1日放送)。
  バラエティ番組への出演は断り続けてきた緒形だったが、同番組のファンだということで「『トリビアの泉』だったらいいよ」と快諾したという。
  このエピソードは『徹子の部屋』にゲスト出演した際も話している。
  この時「自分の中では拳(けん)ではなく、今も緒形 拳(こぶし)なんです」と語っていた。
  (参考:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

 関連記事  
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 【訃報】緒方拳、死去!『風のガーデン』で最後の名演技を(navicon より) 

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