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2005年11月25日 (金)

NO.9「栄光への脱出」

「栄光への脱出」(えいこうへのだっしゅつ)「Exodus

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<元気コメント>キプロスを脱出するハンストの船中で少女が少年に世界を語る言葉、国連のパレスチナ分割を可決した放送を聞きながらイスラエルの指導者が今まで敵だったアラブへ語る言葉、アリが少女カレンの葬儀で世界に訴えるように語る言葉・・・生きる気力が萎えた時、この映画が叱ってくれました。

<あらすじ>

1947年の地中海キプロス島。当時キプロスにはイスラエルに帰ろうとするユダヤ人たちが英軍によって収容されていた。パレスチナを委任統治していた英国がアラブ諸国との紛争をさけるためにとった政策である。アメリカ女性、キティ・フリーモント(エヴァ・M・セント)はキプロスで死んだキャメラマンの夫の様子を探るため現地にやってきた。英軍司令官サザーランドが彼女に便宜をはかってくれた。収容所のユダヤ人たちの窮状をみた彼女は看護婦として、働くことにした。そこでユダヤの美少女カレンや17歳のユダヤ少年ドヴ・ランドーと彼女は知り合った。少女と少年は互いに愛情を抱いていた。その頃、1人のユダヤ人地下組織のリーダーがキプロスに潜入した。アリ・ベン・ケナン(ポール・ニューマン)である。元英軍将校だった彼の任務は、ユダヤ国家再建のためキプロスのユダヤ人たち2800名をエルサレムに送りこむことだった。軍服を利用して、彼は貨物船オリンピア号をエクソダス号と改名、ユダヤ人たちをのせて港を出ようとした。英軍はこれを知って停船を命じた。ユダヤ人たちはハンストをもって対抗した。美少女カレンを養女にしようとしたキティも、少女とともにこの船の中にいた。やがて世界の世論に負けた英軍はエクソダス号出港を許し、一行はハイファについた。カレンら少年少女はガガリーの丘にあるユダヤ人の「青春の村」におちついた。アリの父バラクや友好的なアラビア人ハタが一行を迎えた。バラクの弟アキバは戦闘的なユダヤ人地下組織のリーダーで、アリたちの平和主義者と対立していた。ドヴ・ランドー少年はこの一派に加わった。エルサレムでアリとめぐりあったキティは、彼に愛情を感じた。その頃アキバ1派は暴動をおこして英軍に捕らえられ、刑務所に入れられた。アリはアラブ諸国の妨害を排除するにはユダヤ人組織を統一するのが必要と考え、アキバたちを救出した。しかしアキバは彼の腕の中で死んだ。194711月、国連はパレスチナ分割を可決しユダヤ人の国イスラエル共和国が誕生した。が、そのことは同時にユダヤ人とアラブ諸国の争いが本格化することを意味していた。元ナチ将校フォン・ストークに指揮されたアラブ人たちはユダヤ人地区を襲撃しハタを殺した。アリは少年少女を「青春の村」から脱出させ戦闘体制をととのえた。カレンが銃弾に倒れたが、ユダヤ人たちは屈しなかった。今はアリと行を共にする決心をしたキティも銃をとった。(goo映画案内より)

<データ>

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「栄光への脱出

製作:1960 アメリカ ユナイテッド・アーチスツ配給

監督 オットー・プレミンジャー(Otto Preminger

出演」ポール・ニューマンPaul Newman・・・アリ・ベン・カナン

エヴァ・マリー・セイントEva Marie Saint・・・キティ・フレモント

ラルフ・リチャードソンRalph Richardson・・・サザーランド将軍

リー・J・コッブ(Lee J. Cobb)・・・バラク・ベン・カナン-入植者。アリ・ベン・カナンの兄。「ガン・ダフネ」の村長

サル・ミネオ(Sal Mineo)・・・ドヴ・ランダウ-過激派

ジル・ハワース(Jill Haworth)・・・カレン・ハンセン -パレスチナに一人で移住してきた少女。ハンセンは養父母の姓

 ・ユダヤ人国家イスラエルの建国物語とでもいうべき70ミリ作品。レオン・ユーリスの原作小説を「ポギーとベス」のオットープレミンジャーが製作・監督。シナリオを書いたのは「スパルタカス」のダルトン・トランボ。撮影を担当したのは「カルメン(1954)」のサム・リーヴィット。音楽はアーネスト・ゴールド。タイトル・デザインをソウル・バスが受けもっている。出演するのは「北北西に進路を取れ」のエヴァ・マリー・セイント、「熱いトタン屋根の猫」のポール・ニューマン、サル・ミネオなど。

原作:EXUDS(エクソダス 栄光への脱出) 著:レオン・ユリス 訳:犬養道子 河出書房新社(現在は在庫品無し)

参考:脚本・ダルトン・トランボ(Dalton Trumbo19051976年 アメリカ出身

「ハリウッド・テン」で「赤狩り」された脚本家。しかし破格に才能があったため、ゴーストライターとしてとか、別な作家名義でたくさんの優秀な作品を作った。

【主要作品と略歴】

コロラド大学を卒業後、雑誌記者、編集者を経て映画のシナリオを書き始める。

1939年、反戦小説の『ジョニーは戦場へ行った』を発表、「発禁処分」を受ける。

1947年、3月に「トルーマン・ドクトリン」発表され、 いわゆる「赤狩り」が盛んになり始め、同年、10月に非米活動委員会の第一回聴聞会があり、これに返答拒否して「議会侮辱罪」に問われ、1950年、最高裁判所で罪は確定、トランボたち10名は投獄された(禁固一年)(→「ハリウッド・テン」と呼ばれる)

1953年、『ローマの休日』(「イアン・マクラレン・ハンター」名義→但し実在の人物でゴーストライティング)、同年、同上の作品でアカデミー脚本賞、1957年、『黒い牡牛』を「ロバート・リッチ」名義でアカデミー脚本賞、名も素性も隠して、土木作業員として現場で肉体労働をしていた。一本7万5千ドルの地位から、週給50ドルの肉体労働へ。チャップリンらと共に欧州では受け容れ先があったのにそれを拒否した。「作家名は追放できても。俺の才能までは追放できなかった!」と妻に豪語。一方、アカデミー協会は、この年をもって原作賞を廃止。

1960年、『栄光への脱出』から実名で復帰。

1960年、『スパルタカス』

1962年、『脱獄』

1965年、『いそしぎ』

1966年、『ハワイ』

1968年、『フィクサー』

1971年、『ジョニーは戦場へ行った』(32年前の自作を自ら監督)

1973年、『ダラスの熱い日』

1973年、『パピヨン』(スティーブ・マックィーン、ダスティン・ホフマンと共にこのフランクリン・J・シャフナー作品に俳優としてフランスの刑務所長役で出演)

1976年、71歳にて死去(はてなダイヤリー等より引用)

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2005年11月18日 (金)

NO.8「遠雷」

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遠雷」(えんらい)

<元気コメント>
  若者が自由奔放な恋愛を楽しみ、おおらかでしたたかに生き抜くバイタリティに元気がでました。

<あらすじ>
  満夫は僅かな土地にしがみついてトマトを栽培している。先祖代々の土地は、父が売ってしまい、豪華な家を建てたが、今は家を出てバーの女、チイと同棲している。兄も百姓を嫌って、東京でサラリーマンをしている。家に残っているのは満夫と母と祖母の三人だけだ。日々のいらだちをトマト栽培にまぎらわす満夫にお見合の話がきた。あや子という相手は、まんざらでもない女だ。子供をペロリと産みそうだ。二人はその日にも、モーテルで抱き合った。父が帰って来た。世話になった人が立候補するので、選挙の手伝いをするという。母も父の浮気のことなど忘れて、調子に乗っている。その頃、子供の時からの友人・広次が工業団地に住む人妻、カエデと駆け落ちした。カエデは満夫のビニールハウスにトマトを買いに来たこともあり、関係を結んだこともある。いらだつ満夫に、追いうちをかけるような事件が続いた。トマトが大量発生したアブラムシで全滅してしまった。そして、父も選挙違反で警察にあげられてしまった。あや子の父の希望で、村一番の盛大な結婚式をあげている晩、広次が帰ってきた。カエデを殺してきたと言う。盛大な宴の歓声が母屋から聞こえてくる。ハウスの中で広次は告白しながら泣いた。そして「稲刈り、頼んだぜや」と言い残して自首した。警察を出た父はそのままチイとどこかへ行ってしまった。残された満夫とあや子が腐ったトマトを燃していると不動産屋がやってきて土地を売ってくれと言う。満夫は猛烈な勢いで不動産屋を追い返した。はるか遠くで、雷が鳴っている。(goo映画案内より引用)

<データ>

遠雷」
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制作 1981年 日本  ATG配給
監督:根岸吉太郎(ネギシ キチタロウ)
出演:永島敏行(ナガシ マトシユキ、和田満夫役)
ジョニー大倉(ジョニー オオクラ、中森広次役)
石田えり(イシダ エリ、花村あや子役)
横山リエ(ヨコヤ マリエ、カエデ役)
原泉(ハラ セン、満夫の祖母役)
・宇都宮を舞台に、都市化の波に流される人々の中で、土地にしがみつき、トマト栽培に賭ける青年の姿を描く。野間新人文芸賞を受賞した立松和平の同名の小説の映画化で、脚本は「ひと夏の体験 青い珊瑚礁」の荒井晴彦、監督は「狂った果実(1981)」の根岸吉太郎、撮影は「スローなブギにしてくれ」の安藤庄平がそれぞれ担当

参考:原作「遠雷」 著:立松和平 河出文庫

参考:立松和平(タテマツ ワヘイ)
  栃木県宇都宮市(1947年12月15日 - )生まれの作家。日本ペンクラブ会員。栃木県立宇都宮高等学校卒。早稲田大学政経学部卒業。在学中に『自転車』で第1回早稲田文学新人賞受賞。土木作業員、運転手、魚市場の荷役などを経験した後、宇都宮市役所に勤務。1979年から文筆活動に専念し小説、エッセイの他に、絵本なども手がける。また映画『蜜月』(1984年)では脚本を担当。徳島で、川の学校の講師を務めたこともある。
主な受賞歴
1980年『遠雷』で、野間文芸新人賞受賞。
1985年アジア・アフリカ作家会議「若い作家のためのロータス賞」受賞。
1993年『卵洗い』で第8回坪田譲治文学賞受賞。
1997年『毒 - 風聞・田中正造』で、毎日出版文化賞受賞。
2002年歌舞伎「道元の月」の台本で、第31回大谷竹次郎賞受賞。
立松和平の公式サイト

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2005年11月11日 (金)

0007「ウィル・ペニー」

PDA-200 「ウィル・ペニー」

<元気コメント>

無骨なカウボーイが、自身老いを感じつつもたくましく生き抜こうとする姿と、厳しい冬の寒さの中、子連れの人妻と狭い小屋の一つ屋根の下で過ごす中に、家庭団らんの暖かさをほのぼのと感じさせてくれ元気になりました。

<あらすじ>

少年時代から牧場の手伝いをし、牛をあつかうことにかけては、近在きっての腕のいいカウボーイとして知られるウィル・ペニー(チャールトン・ヘストン)は、ある日ダッチとブルーを連れて町に出かけたが、途中、クイントというならず者の一家とけんかしてしまった。このけんかでダッチーが重傷を負ったので、ウィルとブルーは近くの牧場にダッチーを運び、傷の手当てをした。その牧場には、カリフォルニアにいる夫に会いに行くというかザリン(ジョーン・ハケット)が、男の子を連れていて、ダッチーの手当てを手伝ってくれた。町に着くとウィルは、ダッチーを医師に預け、ブルーを町に残して、冬中の牧草の手入れをするため、草原に出かけた。この草原は、アレクスという男が管理しており、ウィルは、人里離れた小屋に冬の食糧を運ぶ仕事を頼まれた。その途中、ウィルはクイント一家に襲われ、馬と食糧と銃を奪われた。やっとの思いで小屋にたどり着いてウィルは、そこで吹雪に道をはばまれて避難していたカザリン母子に会った。カザリンは傷ついたウィルを手厚く看病した。ウィルは、生まれて初めて愛情の温かさを知った。だが、ウィルが小屋にいることを知ったクイントたちが、再び押しよせてきた。武器もなく、やっと元気をとり戻したばかりであるウィルは、彼らの言うままになるしかなかった。しかし、ウィルはクイントたちと争いやっと小屋を脱出した。ちょうどそこへブルーたちが救援に駆けつけ、クイント一味は倒された。牧場で冬を過ごすことになったカザリン母子は、ウィルに牧場に来るよう勧めた。カザリンはカリフォルニアに去った夫と別れ、ウィルと結婚する決心をしていた。だがウィルは、その申し出を断った。一生をカウボーイとして生きすでに50に近い。これからもカウボーイとして生きるほかはない。ウィルは、そう考えたのだった。アレクスに、自分がもらう金があれば、カザリンたちにやってくれと頼み、ウィルは立ち去った。泥によごれたウィルの顔に、涙が流れていた。(goo映画案内より)

<データ>

    

1967年アメリカ

監督 :トム・グライス(Tom Gries

出演:チャールトン・ヘストン(Charlton Heston

   ジョーン・ハケット(Joan Hackett 

参考チャールトン・ヘストン

生年/1924/10/04

出身地/アメリカ/イリノイ州エヴァンストン

 本名はJohn Charles Carter。12歳の時に両親が離婚。母(旧姓チャールトン)が再婚し、義父の姓のヘストンを貰ってチャールトン・ヘストンと名乗るようになる。高校時代に学生劇に出演して演劇に興味を抱き、ノース・ウエスタン大学で演劇を専攻。44年には大学で知り合った演劇仲間の女学生リディアと結婚。直後に空軍に従軍して無線技師をする。除隊後に妻と共に劇団を旗揚げ。47年、ブロードウェイ・デビュー。やがてTVで活躍し始め、ハル・B・ウォリスに認められて50年「虐殺の街」でスクリーン・デビュー。その2年後に「地上最大のショウ」に出演。以降ミケランジェロの彫刻のような素晴らしい肉体とセシル・B・デミルに絶賛され、「十戒」、「ベン・ハー」などのスペクタクル大作や歴史劇のヒーローとして絶大なる人気を獲得。後記ではアカデミー主演賞に輝いてその後はスター街道を走り続ける事となった。66年からは俳優組合の会長に5年間就任。71年には「アントニーとクレオパトラ」で監督にも挑戦。俳優仲間からの人望も厚く、ハリウッドでの政治的リーダーとして強い影響力を示し、77年にはその功績からジーン・ハーショルト友愛賞を授与されている。98年からは全米ライフル協会の会長にもなった。近年も話題作への関わり合いが多い。ハリウッドの有名俳優としては珍しく離婚歴もなく、息子のフレイザーは監督になった。allcinema onlineより引用)

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2005年11月 4日 (金)

0006「植村直己物語」

B0000ZP4VU 植村直己物語

<元気コメント>

 山に魅せられ自分のチャレンジ心を高揚させるが、世間的に言えば「落ちこぼれ」て、サラリーマン・自営等で糧を求められない一人の男が、自分のしたいことだけを追い求め実現していく姿と、身体が弱く家族の労わりの中で生きてきた娘が、男の物語に感動し結婚生活に幸せを求めていく姿に元気付けられました。

<あらすじ>

グリーンランドのシオラパルクに滞在し、3000キロの犬橇単独行を成し得た植村直己は、久しぶりに東京に戻って来た。彼は駅の階段で偶然出逢った女性と馴染みの店で再会した。そして数日後、その女性野崎公子に自分の著書をプレゼントする。それを読みながら、これまでの植村の人生を知る公子。明治大学山岳部で落ちこぼれだった植村は、卒業後4万円だけ持って、横浜より移民船で渡米した。だが、労働ビザが無いため、不法労働で国外追放され、フランスのシャモニーに渡る。そこで働きながらヒマラヤのゴジュンバ・カン隆明大隊に参加、同峰初登頂に成功した。その時団体登頂は合わないと感じた彼は、その後、モンブラン、マッターホーン、キリマンジャロ、アコンカグアなどを単独で登った。19705月には、日本人として初めてエベレスト山頂に立った。3ヵ月後、北米最高峰マッキンリー単独登頂に成功、5大陸最高峰すべてを征服する記録をたてた。その後一般の職につくがどれも長続きせず冒険家として生きることに。そして、エベレスト国際登山隊に参加した後、陸地の冒険にきりかえ現在に至っていた。深い感動をうけて読み終った公子は、植村のプロポーズを承諾。1974年、二人は結婚した。間もなく、植村は北極圏12000キロの犬橇単独行を1年半近くかけて成し遂げた。彼の冒険熱は失せることなく、784月、寒さと戦い、危く白熊に襲われそうになりながらも、犬橇で北極点単独到達に成功した。その後、これを最後にと南極大陸横断計画をたてるが、フォークランド紛争のためアルゼンチン政府の協力を得られず断念する。そして、842月、マッキンリー冬期単独登頂後、消息を断つ。懸命の捜索にもかかわらず発見されず、日本政府は、死亡が確定的になった419日、彼の輝しい業績に対して国民栄誉賞を贈った。(goo映画案内より)

<データ>

植村直己物語

制作:1986年 東宝

監督佐藤純彌 

出演西田敏行植村直己

   倍賞千恵子植村公子

参考:(本)「青春を山にかけて」 植村直己著 文春文庫

 ドングリとあだ名されていた著者が、無一文で日本を脱出し、ついに五大陸最高峰のすべてに登頂、アニマル植村と称されるまでの型破りの青春を語り尽した感動篇

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